【音楽史】ウェスタンスイングって、どんな音楽?【Part2】

【音楽史】ウェスタンスイングって、どんな音楽?【Part2】
ウェスタンスイング(Western Swing)って、どんな音楽?
どんな歴史があるの?

 

このような疑問にお答えする内容です。

今回は英語版wikipediaの「ウェスタンスイング」について、かんたんにまとめてみました。

 

今回はPart2として、ウェスタンスイングの歴史について解説します。

 

Part1: ウェスタンスイングの定義、音楽的な特徴、使われている楽器

 

もし今後「ウェスタンスイングを作ってみたい」「参考資料が欲しいな」と思ったときは、ぜひこちらのページをご覧ください。

 

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ウェスタンスイングのはじまり

 

「スイング」という言葉に関していうと、これはビッグバンドのダンスミュージックの一種ですが、1932年のヒット曲「It Don’t Mean a Thing (If It Ain’t Got That Swing)」が誕生するまでは使われていない言葉でした。

 

 

第二次世界大戦前、数々のレコード社がマーケティングのために、音楽ジャンルとしてネーミングするようになります。

これには、「ヒルビリー」「オールドライムミュージック」「ノベルティーホットダンス」「ホットストリングバンド」「テキサススイング」などがあります。

多くのウェスタンダンスミュージックバンドのリーダーたちは、「ウェスタンバンド」「ウェスタンダンスミュージック」という名前を好み、「田舎者」というやや差別的な意味のある「ヒルビリー」という言葉は拒否していました。

 

ウェスタンスイングという言葉が使われ始める

 

ウェスタンスイングミュージシャンであるBob Willsや他のミュージシャンたちは、アメリカ南中部にあるオクラホマ州にいた1939年から1942年の間、彼自身の音楽に対して「ウェスタンスイング」という言葉が使われていると考えていました。

また、ロサンゼルスのWilmington Press誌は、1942年の4月に、地元のナイトスポットで「ウェスタンスイングオーケストラ」という言葉を使った広告を掲載します。

 

同年冬にはポピュラーバンドリーダーを決めるコンテストが開かれ、これにはBenny GoodmanやHarry Jamesなど、著名なミュージシャンも参加していました。

しかし、彼らを抑えて優勝したのが、Spade Cooley。

これは予想外の展開でした。

 

ここで彼が優勝したときにCooleyに使われたのが「the King of Western Swing」という言葉。

それからというものの、1942年ごろはCooleyのプロモーターであるディスクジョッキー”Foreman” Phillipsは、「ウェスタンスイング」という言葉を彼のクライアントに対して使うようになります。

最初にこの言葉がアメリカ全体で知られるようになったのは、1944年のBill Boardにおいてでした。

 

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ウェスタンスイングの広がり

 

ウェスタンスイングがアメリカ中西部にあるGreat Plains下流の小さな町のダンスホールで演奏されるようになったのは、1920年代後半から1930年代前半にかけてでした。

家や農園・牧場などで行われるダンスパーティーで、フィドル奏者やギタリストがダンサーのために演奏していたのがきっかけです。

 

このような習慣でウェスタンミュージックが発展していき、徐々にこういったパーティーで使われていた音楽を、基本の音はそのままに、違う曲で演奏し始めるようになります。

 

そして、アメリカのSan AntonioからShreveport、Oklahomaへと、この音楽は広がっていきます。

 

ちなみに、San Antonioはここ↓

Shreveportはここ↓

Oklahomaはここです↓

 

そしてミュージシャンたちは、1920年後半から1930年前半にかけて、ジャズの要素を伝統的な音楽に混ぜるようになります。

 

著名バンドの誕生

 

1930年代前半になると、Bob WillとMilton Brownはストリングスバンドを設立し、「the Light Crust Doughboys」が誕生します。

このバンドは、ウェスタンスイング最初のプロバンドになります。

 

そしてのちにピアニストを交え、ダンスホールで演奏するようになると、ラジオでも彼らの曲が流れるようになります。

1931年に撮影された彼らの写真を見ると、2人のギタリストとフィドルプレイヤーであるWillsの姿が映っています。

画像: wikipediaより

 

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新しい奏法・スタイルの誕生

 

1932年には、Brown、Brownの兄弟であるDerwood、Bob Wills、C.G. “Sleepy” Johnsonは、レコード会社「Victor」から「The Fort Worth Doughboys」という名前で曲をリリースします。

 

1933年には、Cecil BrowerがJesse Ashlockと共に、フィドルでハーモニーを奏でる奏法を編み出します(ハーモナイジング・ツイン・フィドル)。

 

 

ダブルシャッフルとウェスタンスイング

 

Browerはバイオリンのトレーニングを受けていたのですが、実はJoe Venutiの「ダブルシャッフル」を初めてマスターした人物で、彼の即興スタイルは、ウェスタンスイングに大きく影響を与えています。

ダブルシャッフルとはフィドルの奏法の一つで、高い音と低い音を交互にボーイングする奏法のことをいいます。

 

6:08~

 

「2-to-2」は「低・低・高・高」と、同じ弦を2回ずつ弾く奏法。

画像: https://ericchristopher.net/2012/test/

 

「2-to-1」は「低・低・高・低」と、2回同じ弦→違う弦→最初の音に戻る、という順番で演奏する奏法です。

 

画像: https://ericchristopher.net/2012/test/

 

The Orange Blossom Specialという曲で多用されています。

 

 

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いろいろな楽器を加えて…

 

1933年後半になると、Willsは「Bob Wills and His Texas Playboys」というバンドを結成します。

このバンドでは、フィドルx2、ギターx2、スティールギター、バンジョー、ドラム、その他の楽器をいくつか交えていました。

 

 

スティールギターとウェスタンスイング

 

アンプを使ったスティールギターの音は、このジャンルにおける音色の特徴でもあります。

 

 

1934年・1935年ごろ、Bob Dunnはアコースティックギターを「電気化」して、Milton Brownのバンドで演奏します。

ちなみにこのアイデアは、スティールギターに手作りのピックアップを付けて演奏していた黒人のミュージシャンを偶然見つけたDunnが、彼からこのやり方を教わったことで実現したといいます。

 

1935年になると、Brown and His Musical BrowniesはW.C Handyの「St. Louis Blues」という曲を、短いアレンジ版で演奏します。

 

 

これに加えてダンスホール・アレンジ版を作り、ゆったりとしたテンポで、ボーカルを加えて15分間演奏していました。

そして最後のコーラス(サビ)にかけてテンポをだんだん上げていき、最終的にはプレスト(BPM176~192)にしていくという演奏方法でした。

ダンスホールにいたダンサーたちは、この「テンポがだんだん変わる」というアレンジをとても気に入っていたようです。

 

「リード」「フロントライン」という考え方

 

1938年ごろには、ギターとスチールギターという編成に加えて、「リードギターとエレキギター」という編成も使われるようになります。

この「フロントライン」という考え方は、1944年以降、Willsのオーケストラにおいてはフィドルに対してもギターに対しても使われました。

 

このスタイルは、のちにWills and his Playboysやthe Light Crust Doughboysの音楽を通して広く知られていくようになります。

 

1930年後半から1940年代中盤:人気絶頂

 

ウェスタンスイングは、第二次世界大戦前から数年かけて、アメリカ南部で爆発的に人気を高め、戦時中は西海岸でも人気を高めました。

 

1940年代になると、アメリカ南部や南西部の170局以上ものラジオ局がthe Light Crust Doughboys(Part2で説明済み)の曲を流しており、何百万人ものリスナーがいた人気ぶりです。

1934年から1943年にかけては、Bob Wills and the Texas PlayboysはTulsa(オクラホマ州)にあるCain’s Ballroomという音楽施設で夜通し演奏し、多い時は6,000人も集客したといいます。

その他にも、「Willsも出演した3日間で15,000人の参列者を出したイベントが戦時中に開かれたが、あまりにも人が多いために会場が崩壊するのを懸念した警察が、チケットの売買を止めるまでにもなった」というエピソードもあります。

 

カントリー&ウェスタンミュージックシンガーのMerle Travisは、「この時にはすでに”ウェスタンスイング”という言葉はすっかり浸透していた」と話しています。

 

1944年: ナイトクラブ税と人気の衰退

 

1944年、第二次世界大戦で財政難に陥ったアメリカは、「ダンス」のナイトクラブに対して30%の税金を課していました。

その後この税金は20%まで下がったものの、「No Dancing Allowed(ダンスは許可しません)」という看板が国中に掲げられていました。

 

クラブのオーナーやプロモーターたちは、それぞれの市・州政府すべてに対して税金を払う余裕はありませんでした。

同じ頃、ウェスタンスイング同様、ビッグバンドも徐々に人気が衰退していきます。

 

Bob Wills and His Texas Playboysは戦後も人気を維持できたものの、新しいレコードを存分に出すことはできませんでした。

 


 

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