【音楽史】アパラチアンミュージックとは?【詳細編】

【音楽史】アパラチアンミュージックとは?【詳細編】
カントリーのもとになった「アパラチアンミュージック」って何?どんな歴史がある?

 

今回はこのような疑問にお答えする内容です。

 

「アパラチアンミュージック」の英語版wikipediaの内容をまとめてみました。

 

この詳細編では、実際の音声を聞きながら、アパラチアンミュージックの歴史や特徴を具体的に解説していきます。

「とりあえず手っ取り早くアパラチアンミュージックについて知りたい」という方は、前回の「概要編」をご覧ください。

 

【音楽史】アパラチアンミュージックとは?【概要編】

 

「音楽史なんて別に知らなくてもいいじゃん,..」という方も、現代のポップスにもつながるこのジャンルがどのようにしてできあがったのかを見ると、非常におもしろい発見があります。

音楽史・音楽ジャンルを知ることで作曲の引き出しも増えますので、ぜひ最後までご覧ください。

 

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はじまり

 

最初のきっかけは、17~18世紀。

イングランドやスコットランド低地地方、アルスター(アイルランド)からの移民がアパラチアンにたどり着き、彼らの地域の伝統音楽をアパラチアに運んできました。

 

これがイギリス・スコットランドバラッドや、フィドルの伴奏があるリールなどのダンスミュージックの元となります。

 

リール音楽はこんな感じの音楽です↓

 

[Celtic Dance] Tabache – The Gneevguillia Reel

 

 

アパラチアで人気の曲

 

“Pretty Saro”、”The Cuckoo”、”Pretty Polly” や”Matty Groves”など多くのアパラチアンバラッドにイギリスの伝統バラッドが引き継がれ、その地で人気となりました。

アパラチアで人気の曲は他にも、”Young Hunting,” “Lord Randal,”, “Barbara Allen”などがあり、これらはスコットランド低地地方のルーツを持っています。

 

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イギリス王室でも人気だった

 

アパラチアのポピュラーなフィドルチューンの中には、西アイルランドやスコットランド高地地方など、ゲール語圏地域の起源を持つものもあります。

これらの印刷版は非常に人気で、北アメリカを含み18世紀の王室までにも人気が及びました。

その結果、アパラチアにも広がったといいます。

 

「ライニングアウト」とアパラチアンミュージック

 

初期の移民たちは「ライニングアウト(lining out)」という教会音楽(church singing)の形式ももたらしました。

これは1人が賛美歌・聖歌の一説を歌ったら、残りの人たち(会衆)がそれに応えるという形式です。

 

 

このタイプの「会衆賛美」はアメリカの植民地全体で一般的でしたが、現在は東ケンタッキーや南西バージニアの丘陵にあるオールドレギュラーバプテスト教会に規制されています。

 

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ブリティッシュ音楽の変化

 

ブリティッシュ音楽はアメリカ人の定住後、徐々に変わりつつありました。

もともとインスパイアされていた人々やイベントが定住者の子孫たちに忘れられていくにつれて、曲が叙情的に変わったのです。

また、ドイツ人・オランダ人・フランス人(ユグノー)や特定のアフリカ系アメリカ人を含めた他の定住民の音楽の影響は、新しい音楽が独自のサウンドに発展させていきました。

 

“New World”バラッド

 

“New World”バラッドの伝統は、北アメリカで書かれたバラードから構成され、アパラチアンミュージックの発展の際の”Old World”伝統音楽と同じくらい影響がありました。

New Worldバラッドは通常その日のイベント・ニュースを反映して書かれ、ビラとして出版されることが多かったといいます。

 

New Worldバラッドは”Omie Wise”、”Wreck of the Old 97”、”Man of Constant Sorrow”や “John Hardy”を含め、アパラチアンミュージシャンたちの間で人気でした。

 

Doc Watson – Omie Wise

 

以降、炭鉱やそれに関する労働問題が”抗議曲”の発展を導き、”Which Side Are You On?” や “Coal Creek March”などの楽曲が生まれました。

 

Coal Creek March

 

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楽器「バンジョー」

 

アパラチアン文化で最も印象的なのは、バンジョーです。

 

John Denver "Take Me Home, Country Roads" Banjo Lesson (With Tab)

 

バンジョーは18世紀、アフリカ系アメリカ人の奴隷がその地にもらたしたもの。

黒人のバンジョー奏者は早くて1798年から演奏し始めており、この頃には彼らがテネシー州ノックスビルに存在していると記録されています。

 

アフリカ系アメリカのブルースは、20世紀初期に広まり、ハーモニー(3rdや7thのブルースノートなど)とフレージングをアパラチアンミュージックにもたらしました。

Dock BoggsやHobart Smithなど初期のアパラチアンミュージシャンの多くは、黒人ミュージシャンのパフォーマンスを見ることで非常に影響を受けたことなどを思い出したといいます。

 

Oh Death-Dock Boggs

 

楽器編成の移り変わり

 

ギターやマンドリン、オートハープなどの他の楽器は、通販カタログの普及により19世紀終わりにアパラチアで人気となりました。

これらの楽器はバンジョーとフィドルの楽団に加えられ、初期ストリングスバンドの形成に至ります。

 

楽器「ダルシマー」

 

フレットダルシマーは、その地で人気があることから「アパラチアン」や「マウンテン」と呼ばれ、19世紀に北西バージニアや南西ペンシルベニアに姿を現します。

これはドイツ楽器の改造版であると言われています。

ハンマーダルシマーとは関係なく、フレットダルシマーは基本的にツィターという楽器を改造したものです。

 

フレットダルシマーはこんな楽器です↓

 

I'll Fly Away, played on mountain dulcimer by David Durrence

 

ハンマーダルシマーはこんな楽器です↓

 

Amazing Hammered Dulcimer Musician – Joshua Messick

 

ツィターはこんな楽器です↓

 

German Zither Music

 

ダルシマーの音楽教育

 

20世紀前半、ケンタッキーの(定住者)学校は生徒にフレットダルシマーを教えており、この地域での普及の助けとなりました。

シンガーのJean Ritchieは1950年代にフォークミュージック愛好家の中で、この楽器の普及を担当したといいます。

 


 

↓アパラチアンミュージックをざっくり解説した概要編はコチラ↓

 

【音楽史】アパラチアンミュージックとは?【概要編】